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静岡県静岡市のリフォーム会社『ライファ弥生(リフォーム歴30年)』

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スイスだより
趣味の山歩きを兼ねて長女が嫁いだスイスを頻繁に訪れた近藤美佐子さん(元中学校教諭)による教育と紀行のエッセーです。教員の方に人気です。
スイスだより 本のご紹介
「スイスだより」
近藤美佐子著  出版:羽衣出版
1500円(税込)
2006年10月発売

羽衣出版のページより本をお買い求めできます。
第31回へ
第30
30 小学校で英語? (第45号 2002.4.1発行号より)

 最近、日本でにわかに取りざたされていることに、小学校での英語学習があります。中学校から始めて、高校、大学と計10年もの間、かなりの時間と費用を費して勉強しているのに、会話も出来ない大学生が多いとの批判から、語学の早期教育の必要や、ボーダレス時代に不可欠な外国語の重要性を説く人が後をたちません。
  その延長線上に英語を公用語にしようとさえ言い出す人もいます。
  さて、私個人としては、英語に限らず、外国語が使えることの大切さを痛感していますし、現代では母国語プラス2外国語が必要だと常々主張しています。しかし、小学生から学校教育の中で扱うことについては、少々懸念しているひとりです。
  というのは、語学は、音声から入って、その場に合った使い方に馴れ、自然と身に付くものと思うからです。さらに言葉の中心は母国語で、自分の考えや主張を自分の言葉ではっきりと表現出来ることが基本になると思います。
  小中学生時代は、まず「日本語」をきちっと聞いて、話し、読んで、書けることを十分に訓練し、自分が何をどう考えて、どうしたいのかを述べられるように学習すべきだと思います。美しい日本語が正しく使える日本人をまず育ててほしいのです。
  言葉の修得が中途半端のままで大人になると、日本語が粗雑になり、意味不明な略語や流行語が横行するだけでなく、自己主張のできない成人が増える結果になるのです。
  現在、すでにその傾向を心配する人の多いのも事実です。幼児期から、ネイティブ・スピーカーから正しい音声による歌やゲーム、お話などを耳から聞いて習い、体操やスキットで覚える体験は、発音や基本的な言い方の訓練として大切ですが、指導者が和製英語を平気で使ったり、読み書きにのみ重点をおくやり方だけは避けるべきだと思います。
  まずは、リラックスして音声を楽しく学ぶことが大切です。その指導は直接、英語圏で生まれ育った人から受けるべきですが、これを全国の小学校に徹底させるのは至難の業でしょう。仕方なく、TV、ビデオ、テープ、CDなどのオーディオに頼ることになります。
  外国語に限らず音声は最初に耳にした音で覚えるものですから発音をぜひ大切にしたいものです。日本の子供たちに、日本人から外国語を習った先生が日本式に教える集団学習では、本来の外国語の勉強にはならないと心配になるのです。
  さて、スイスでも最近、英語教育がとりあげられて話題になっていますが、平成13年1月21日の朝日新聞の日曜版にチューリッヒ在住の日本の方の「ハイジの英語にペーター『?』」という記事が興味をひきました。スイスはご存知のように、ドイツ語、フランス語、イタリア語が公用語で一部の地方で話されるロマンシュ語の使用も認められていますが、英語はこの中にないのです。そこで2003年からチューリッヒの小学校に英語の科目が登場するというので、人々があわてだしているのです。この案は数年前に州の教育局から提案されたもので、住民は初め、あまり問題にしていませんでしたが、本格化する様子にハイジとペーターを利用してこの国の人々の困惑する様子を伝えてくれました。
  欧州大陸に英語圏はないので使用されなかった英語も、観光立国スイスとしては世界のグローバル化に呼応しての選択で、これから波紋が広がりそうです。
・・・次回へ続く・・

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第29
29 真夏の雪 (第44号 2002.1.1発行号より)

 スイスの山歩きを計画する時、仕事の都合による日程や、格安費用のツアーでは、当地の気候はあまり考慮されませんので、特に比較的安い航空券が入手出来る2月、6月、クリスマスの後の頃は、一般の山歩きは無理で、里山を楽しむか、スキーや冬の景色の撮影など、目的のはっきりしている場合以外はお勧め出来ません。
  昨年の夏は、娘の家の庭の手入れを手伝うという大義名分を掲げて、主人と6月から7月末日にかけて40日余り滞在しました。張り切って仕事をしようとしたけれど、ほとんどやる事もなく、芝生の種子を播いた庭のスプリンクラーの蛇口をひねったり、潅木の枝を切ったりした程度でした。
  初日に30℃という猛暑にびっくりして、日本に居るようだと騒いだのに、その後、6月末に2回暑かった以外はぐーんと寒くなって、なんと7月2日には雹が降りました。
  ピーン、ピーン、カチン、カチンと石でも降るかのような音。天窓のガラスが割れんばかりの勢い。見る間に直径4〜5pの氷の塊りで、庭は白い石を敷きつめたようになりました。
  これは全ヨーロッパの低温による異常気象で、この日から2週間余りにわたって、天候は定まらず、急に雨が降ったり、陽が射したり、突然雨雲が出て空が真暗になり大雨が降ったりの繰り返しで、気温も低く寒かったのです。
  温度計は16℃。早速ボイラーを運転させたり、長袖シャツやセーターを着込んで対応しました。テレビや新聞は各地の雪便りを知らせ、サンモリッツやダボスは積雪3pで、1997年7月には10p積もった記録があると報じていました。
  各地の雪だるまや雪かきの写真が、しばらくの間紙上を賑わす中で、面白いと思ったのは「夏休み始めの暑さの中休み」という見出しで、天井にかなりの雨水をためてしまったテントを、内側から支えている子供たちのキャンプの様子や、雨をものともせずに読書する少女をレポートし、「雨もまた楽しい」とコメントしていました。
  それから連日、雨、雨、雨。テレビでは7月14日のパリ祭も雨にたたられたと伝え、コンコルド広場の芝生にビニールを敷いて談笑する人々や、飲んだり、食べたり、お祭り気分の様子を映していました。日本人は雨にぬれるのを嫌うけれど、欧米の人々はそうでもありません。
  特に夏、海のないスイスでは湖を見るとすぐに飛び込む若者をよく見かけました。しかし氷河から流れる河川ではそうはいきません。冷たいし、水量が多くて流れは速いし、色が茶褐色で入る気もしませんが、勿論、危険きわまりないですね。
  でも、山歩きで休けいすると、すぐに裸になって日光浴をするのは、日照時間の短いスイスの生活の知恵かも知れません。
  天気予報では、スイスの2000m以上は雪で真っ白、下界は雨で10℃前後。みんな致し方なく家に居ました。これは全ヨーロッパに停滞して動かない低気圧のせいでどうにも仕方がありません。7月2日のテレビの画面は前ページのようなものでした。
  この頃東京は29℃くもり、ニューヨーク22℃くもり。こうして雨にたたられた一ヶ月余は、ただ、ぼーっとして過ごしました。でもこの目に見えないリラックスタイムが私達の体調管理に十分役立ったのは言うまでもありません。
・・・次回へ続く・・

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第28回
28 ポケモン旋風 (第43号 2001.10.1発行号より)

 2000年4月、孫が来日した折の誕生日、プレゼントはピカチュウが欲しいと言う。さてピカチュウとは何者か。主人や私は皆目見当がつかない。ある日、娘と孫はお祭りも終わった浅間通りでピカチュウを買ったと得意げに帰宅しました。
  聞けば街のデパートや玩具屋をあちこち尋ね歩いて随分と労をつくしたが、どこにもなく、仕方なく浅間神社に向かって歩いていて、偶然目に留まった、たったひとつ売れ残ったピカチュウ。ラッキーだったようです。
  ピカピカーと声を出し体を動かすこのおもちゃ、やっと今流行のポケットモンスターの存在を知りました。でも日本ではもう下火なのにアメリカやヨーロッパでは全盛とか。先日、東京の外国人専用のハトバスに乗ったら、浅草寺の仲見世街で多くの外国のお客様がポケモンカードを何枚も買っていたのを見ました。これでやっと世界的な流行がわかりました。
  今夏スイスに行って更にびっくり。大騒ぎして帰宅した孫の手にはピカチュウ・シューズ。靴にピカチュウの絵、入っていた箱にはピカチュウやさとし君とそのほかのポケモン軍団のメンバー。それぞれのキャラクターが個性を発揮していました。8月の小学校の入学の日から履くそうです。
  7月のある日曜日にZugに食事に出掛けました。途中、Thalwilで乗り換えの列車を待つ間のプラットホームで、5歳位の女の子が手にしていたのは、紛れもないポケモンカード。
  おばあさんに連れられていたその子は、マヤに近づいてきてカードをちらつかせました。マヤもすばやく見抜いて、自分と同じカードだと耳打ちしました。Zugの駅のキヨスクで、私共が絵はがきを買う間に、孫はいち早くポケモンカードを見つけて買ってもらいました。街の店々には日曜日で扉は閉まっていても、ドアにはポケモンのポスターが貼ってあって、ムード作りは上々だと感じました。
  帰りの電車の中で妙に子供達の声がします。近づいてみると、3人の小学生らしい男の子が机いっぱいにカードを並べて、わいわい騒いでいます。見ればヨーロッパ各サッカーチームの名選手のカード。お互いに見せ合ったり、交換したり、選手の活躍ぶりを話していました。念の為、中田や城がと思ってのぞいたけれどありませんでした。大きい子供達はサッカーファンなのですね。
  聞くところによると、Badenの近くのショピングセンターには、ポケモンコーナーがあって、あらゆるポケモングッズを売っているとか。流行するわけだと思いました。家に到着して「何時か」とマヤ。それもそのはず、月曜日から金曜日の3時と5時はお気に入りTVがポケモンアワー。これは見逃せないらしいのです。
  当日は日曜日。仕方なくマンガのチャンネルに。日本の子供達から見れば古い古いディズニーものやシュルツ氏のスヌーピー、それに忍者ものが大うけ。また何年か前にやった「たけし軍団」シリーズも私には珍しく映ったのでした。
  朝食にきまって食べるフレークも子供用の箱にはポケモン、側面のシールを5枚集めて送ると賞品がもらえるとか。箱の中にはポケモン絵カードが入っていて、次に何が出るかとわくわくしていました。
  昼すぎ、遊びに来た日系の兄妹はポケモンTシャツを着て、例のカードのコレクションを見せてくれました。朝から夕方のTV番組まで日本のマンガに夢中になる子供達を見ていると、世界はひとつ、子供は子供だと痛感しました。
・・・次回へ続く・・

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第27回
27 天ぷらディナー (第42号 2001.7.1発行号より)

 「美佐子、あしたの天ぷら用には何を用意したらいいかね」と7年前に独語学校でお世話になったDagmarさんからの電話。
  先述のメリ・リンと共に学んだ時の先生で、毎年Badenに行けば必ず彼女宅を訪れるのが私の楽しみな事のひとつになっています。今夏も到着を知らせると、去年からの約束の天ぷらを教えてほしいとのことでした。すぐに日時を決めて実行となったので、彼女から買い整える材料の問い合わせのTELがあったわけです。
  私は日本式の天ぷらを考えて、野菜類にエビ、卵、醤油、サラダ油、小麦粉それにお米など、こと細かに伝えて、当日夕方の6時には、山形のおいしいおそばとめんつゆだしを持って出掛けました。玄関には私を待ち構えるかのように、かっぷくの良いご主人とダグマさん、それに長身の2人の娘さんが出迎えてくれました。
  油分の多い食事には大根おろしがよく合うこと、さっぱり感には彼等の好きな野菜サラダがよいこと、さらに普段食べないお米を炊いて和食の味覚を知ってほしいと、手際よく仕事を進めました。特に炊飯器のない家庭でしたから、2合のお米に適当な水加減でお鍋で炊ました。銘柄はカリフォルニア産ひかり。私達にはなじみのないものだけれど、案外日本米に似ていました。炊き方は例の「始めチョロチョロ、中パッパ、赤児が泣いても蓋とるな」と唱えたら、分り易いと納得してくれました。
  次にいよいよ天ぷらの具の用意。人参は線切り、玉葱は2つ切りにしてから薄切り、隠元豆は5pくらいに切り揃え、適当な大きさに切り分けたブロッコリーと共にゆでて水切り。小エビは洗って水切り。乾物のおそばは、たっぷりの沸騰した湯で5分ゆでて、冷水に取り、十分洗って水切りする。天つゆとそばつゆは、めんつゆのだしで作ってさましておきました。
  テーブルには、色どりよく盛り付けたサラダ、ガラスのコップを利用したそばちょこ、中皿には白いご飯、天ぷらをとるとり皿、中央には大根おろしにきざみ葱です。
  皆が席に着くとご主人がスイスの白ワインをおもむろに取り出しました。私は早速、天ぷらを揚げ始めました。でも皆ただ見とれるばかり、どうして食べるのかと戸惑う様子、そこで食べ方のデモンストレーション。天ぷらのとり皿に揚げたての人参、隠元豆を取り、大根おろしをのせて天つゆをかける。一方、コップのそばつゆにそばを入れ、玉葱とエビのかき揚げをのせる。
  うーん、なるほどと言わんばかりに揚げたての天ぷらを次々に食べて「オイシイ」「スーパー」などと口々にはしゃぎながらよく食べました。ワインを飲み、天ぷらを食べ、そばをほおばる。そして白いご飯に天ぷらと、生まれて初めての日本の食事に、満足そうに「おいしい」を連発して、たちまちひと通りの具を平らげてしまいました。私もグラスをかたむけながら家族とのおしゃべりが弾みました。
  ご主人は1992年と1998年の2回、会社の出張で来日したそうです。訪れたのは水戸、京都。京都で畳にふとんを敷いて寝たこと、新幹線が便利なこと、京都の枯山水の庭の美しさが印象に残ったとのことでした。食べ物はしゃぶしゃぶがお気にいりとか。
  夜10時近くなってもまだ明るい白夜の中を、ダグマさんに送られて、ゆっくり歩いて帰宅。さて来年は何を所望するのか今から楽しみ。少しでも私達の味に親しんでほしいと思いました。
・・・次回へ続く・・

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第26回
26 行きはよいよい (第41号 2001.4.1発行号より)

 きょうは台湾出身でスイス人と結婚したメリ・リンから夕食の招待を受けました。彼女とは6〜7年前にBadenの独語学校で知り合ってからの友人で、当時、クラスにはイタリア人、アメリカ人、ロシア人、ブラジル人、アフリカのザイール出身の人、コソボのアルバニア系の人やジャマイカの人など、国籍も性別も年令もまちまちな上に、英語は米国人と私達二人以外には通じないグループでしたからコミュニケーションのとりようがない仲間でした。
  しかもしばらくしてアメリカ人の男性はやめてしまいました。メリ・リンは新婚2ヶ月で知人も友人もいない立場で私とはすぐに親しくなりました。
  同じアジア人という気安さからか、親子ほどの年令の差も感じないで毎日よく話したり、彼女の嫁ぎ先に招かれて日本食を料理したり、毎年スイスに行く度に中華料理をご馳走になるなど、お互いの家族ぐるみの付き合いが続いています。中でも私の興味をひいたのは彼女の日本語です。大戦中、日本の統治下で日本語教育を受けた彼女のおばあさんから日本語や童謡を伝え聞いての耳学問で、すっかり身についたとのことでした。
  異国で外国人の歌う「さくらさくら」や「桃太郎さん」は新鮮な驚きとうれしさとが入り混じって、思わず大声を出していっしょに歌ったことは忘れられません。同じ言葉、同じ旋律を共有できることは相互の理解と信頼を深めるに余りあることを実感したのもこの時でした。
  その彼女から第2子誕生のカードが届いたので、早速スイス滞在の予定を知らせると、すぐにお招きの連絡を受けたので主人と出掛けました。しかし、交通の少々不便なLenzburgなので事前によく調べて無人駅Baden Oberstadtから往復切符を買って電車に乗りました。駅では彼女のご主人がにこにこと出迎えてくれました。生後1ヵ月で体重5sもあるという骨太の赤ちゃんを抱いたメリ・リンが玄関に笑顔で立っていました。2人の子持ちになり、すっかり母親らしい自信にみちた様子でした。
  ご主人自慢のポークステーキにスイスワインで乾杯。四方山話も賑やかに、台湾の地震でご両親の家が被害を受けたこと、若い新大統領が立候補当時は独立を主張し、現在は中国政府に気を使うなど政治姿勢が変化したこと、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの台湾紀行がおもしろいなどと杯をかたむけ、飲むほどに食べるほどに話題は尽きませんでした。
  それにしても心のこもった食事のおいしかったこと。私共は時のたつのも忘れた程でした。
  さて帰り、勿論、直通電車はありません。Lenzburgから1区間Othmarsigalまで電車で行き、そこで降りたのは私達とあと僅か2人だけ。薄暗い駅前で待つことしばし、大型バスが到着し、人通りのほとんどない田園地帯をただただ走ること40分でBruggへ。そこでまた電車に乗り換えてBadenへ。駅前からは小型バスで家へ。行きは20分で到着したのに帰りはなんと1時間余もかかってしまいました。
  でもこれは珍しい。電車とバスの乗り継ぎが実にスムーズに行われました。思えば乗客がどの方面に行きたいのか、あらゆる可能性を考えて配車したのだと思いました。
「もう電車はありません」で終わらないで、夜半のたった4人の客のために大型バスが走り、事前に買った往復切符でOKというこのシステム。個人の立場を配慮した、人に優しいやり方に感激したのは言うまでもありませんでした。
・・・次回へ続く・・

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第25回
25 これぞバカンス (第40号 2001.1.1発行号より)

 朝、小鳥のさえずりで目が覚めました。「あー、いい天気だ」と窓のブラインドを開ける夫の声も弾んでいました。
  気分よく目ざめたその時、「おばあちゃん、起きて」と孫の声。あー、もう出かけるのかなー。今朝は、幼稚園のプールに入った孫が、雑菌で手足にはれものが出来たので、医者に行くという。娘の出勤に間に合うように、私が診察後に幼稚園に連れて行くバトンタッチの役目をすることになりました。
  個人病院というけれど、店舗の脇の階段を3階まで上った所に各医者の個人診療室と共同の事務室と待合室があって、医薬分業らしく全く不用なものは一切ない簡素な部屋で様子を聞きます。傷を診て「心配するような危険なものではなく、ヴァクテリアの繁殖したものだから、軟膏と飲み薬のシロップを処方します」と言って用紙に必要事項を記入して渡してくれました。
  日本と同様にこれを薬局に持参すればよいわけで、あとは傷の手当てをして終わり。診療代も支払いはありません。これは薬局経由で保険から差し引かれるとのことでした。幼稚園へは遅刻したけれど、いたしかたありません。
  このあと、私は幼稚園の近くの教会の裏手から丘の散歩道をWettingenSchartenfels城まで、ゆっくり新緑の中を歩きました。樹木の緑の中に光が射して、朝の新鮮な空気が一段とおいしい。
  人っこひとりいない森の中、木々の間にEnnidbadenの家々が見え隠れし、緑の木々と家屋の茶系の色のコントラストが美しい。10時を20分程過ぎていて、ほどよく城跡のカフェが開いたところで、早速コーヒーを注文しました。
“Haven Sie Kuchen?”“Nicht”と聞きとれました。でも菓子パン状のものはあるとのこと甘いか≠ニ私。“Ja”“OK”とそれを頼んだ。勘定書には1 KAFFEE SF 3.5 1 WAREN SF 2.50で計6フラン(約420円)。1品はイーストを使って焼いたかたつむり状のクロワッサンタイプでHeffeschneckeというらしい。
  のんびりと静かな風に吹かれてお菓子をいただき、コーヒーを飲む。おいしい。口のなかに甘味が広がり、コーヒーの渋さと相まって潤す。ゆっくり、そしてゆっくりと味わいます。
  あー、いい気分。眼下に500年余りの歴史を彩る町のシンボル塔と教会の尖塔、そしてセピア色の家並が見渡せます。だれにも邪魔されず、だれも来ません。こうしていると、時のたつのが実にゆっくりでいいものです。
  ぼーっとしているこの時こそが、何にも代えがたく貴重です。日本でのあわただしさや、他人に左右されたり、自分の時間の中に人が入り込んでくるやるせなさからの開放こそ、私の一番のぜいたく。じっと考えたり、全く何も考えなかったり、ほっておかれる幸せは格別のものだと思います。
  旅に出ると、人は、あそこに行った、あれを見た、これを買ったとせせこましいスケジュールに追われるけれど、実は何も観ていないし、感じていないことが多いようです。その土地の風に吹かれ、その土地のにおいをかいでゆったりと時に身をまかせてみると、その風やにおいの中に生きる喜びを感じて、うれしさが身にしみます。
  あっ、この時がきれい。空を仰ぐ、山を眺める、川を見つめる。今、こうしている自分を、自分が思わず見つめなおして苦笑いします。写真にもビデオにも映らないけれど、ずーっとずっと私の心に残ることでしょう。すべてが美しい朝のひとときでした。
・・・次回へ続く・・

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第24回
24 花のある暮らし (第39号 2000.10.1発行号より)

 スイスの夏は短く、6月までは肌寒く雨も多いし、山々には雪が残っています。そして9月にはもう紅葉、ちらほらと雪の便りも聞かれます。8月は30℃を越す日が1週間くらいで、あとはしのぎやすいので、アルプスの山歩きは7月20日前後から8月初旬が最適で、世界中からの観光客で賑わうこの頃がピークとなります。
  その山歩きの楽しみのひとつが山野草の宝庫を訪ねるフラワー・ウオッチングです。3000〜4000m級の高い山々では、岩場の陰に丈の低い草花が精いっぱいの存在感を示しています。
  ツェルマットからゴルナーグラードに登ってからの帰路を逆さマッターホルンで有名なリュッフェルゼーにとって、リュッフェルアルプやリュッフェルベルグまで歩くコースに可憐な花が多く見られます。
  うす桃色のユキノシタ科のサキシフラガ、忘れな草のようなエリトリキウム、マメ科のロータス・アルピナ、リンドウ科のゲンティアナの種類は青色のアカウリス、5弁で小花のウェルナ、濃い紫色のクルシイなどアルプス各地でよく見かける花々です。このほかブルーや紫系ではキキョウ科の各種カンパヌラやヘアベルは鐘状のうつむき加減に咲く姿が可愛らしいですね。
  ユングフラウヨッホ3454mから3970mのアイガーのトンネルを抜け、アイガー・グレイシャー駅まで下って電車を降りると、色んな草花がベルナー・オーバーラントのアイガー・メンヒ・ユングフラウをバックに一面に咲き揃います。
  色とりどりの花々の中を2061mのクライネ・シャイデックまで下る道々はまさに花いちめんの百花繚乱。草花の丈も伸び花も大きいから華やかに映ります。フリルをつけたようなナデシコ科のマンテマ、ピンク系のキク科のヤグルマギクやデイジイ、うす紫色のマツムシ草、黄色のフキタンポポにハクサンチドリ、アザミやシナノキンバイ、サクラ草やプリムラ、西洋オダマキなど日本の野山でもよく見かける花も多くあります。
  人々は足を止め、花を愛で、カメラに収め、しばしうっとりとした時を過ごします。急がず、騒がずのゆったり旅でこそ味わえる醍醐味。足に自信のない人もあの花、この花と花に気を取られ、花に導かれて歩きます。
  ユングフラウヨッホへの登り口、グリンデルワルトの村からフィルストへ登るリフトから見下ろしますと、足下に広がるキンポウゲの群生は黄色一色で見事です。西洋タンポポやワスレナ草、葉が日本のふきによく似たキク科のアデノステュレスの一種やヤマヤグルマ、悪魔のつめの異名を持つキキョウ科のピユテウマ、ユリ科のスキッラやサクラ草科のプリムラなどが、ほかの花々と競い合って真夏の陽に輝いています。
  ある人が「だれがここにお花の種子を蒔くのですか」と私に聞きました。一面に群れ咲く草花に驚いて思わず尋ねたのでした。あまりの見事さの自然の驚異への質問だったに違いありません。だれも種子など蒔くはずもなく、全く自然の営みの作り出す素晴らしさに脱帽です。
  一般にアルプスの三大名花といわれるのは、ツツジ科のアルペンローゼ、ローゼの名からバラと思われがちだけれど、シャクナゲに似て枝先に赤い小さなツツジのような小花がまとまって咲く低木です。次にリンドウ科のゲンチアナ・クルシイ、丈は10p位で小さいわりに花は5〜6pと大きく、バターの包装紙にも描かれてよく知られています。そしてスイスアルプスのシンボル的存在のキク科のエーデルワイスです。でも近頃は、山でもなかなか見られない貴重な花になりました。花壇や墓地で目につくのは栽培種です。
  さてスイスの花のある暮らしを豊かにしていることのひとつに花の市があります。例えば、チューリッヒの湖畔では毎週土曜日に、バーデンでは教会の広場で毎週火曜日と土曜日に、野菜といっしょに並ぶ草花は種類も多く色が鮮やかで彩り良く束ねられています。
  この国では建築基準に村全体のバランスを考えて建物の高さ、大きさ、窓の位置や壁の色が決められています。また、家々の窓辺やバルコニー、道路沿いや橋の両側にも丹念に手入れされたゼラニウムが咲き乱れて、町や村の風景に彩りを添えているのは見事です。
※草花の名称は柳宗民氏著『スイス・アルプスの花』を参考に致しました。

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第23回
23 鍵のある暮らし (第38号 2000.7.1発行号より)

 30年も昔ですが、アメリカ・イリノイ大学の学生寮に滞在した時、友人が、部屋の部厚いドアを開けて外に出ました。眠い目をこすりこすり夜遅くトイレに行ったのでした。ところが用を足して部屋に戻って開けようとしたドアは、全く微動だにしませんでした。勿論、用足しに部屋の鍵を持つなど思いもよらなかったのです。28階の夜中のドミトリーは静まりかえり、助けを呼ぶことは不可能だったから、彼は仕方なく1階のオフィスに出向うとエレベーターの前へ。然し、これも夜半のこと故、全面ストップ。なす術もなく階段を1段ずつ、えっちらおっちら歩いて1階正面玄関へ。合鍵を拝借して、再び28階へ。夜は白々と明けはじめ、もうすっかり目もさめて何のことない、たったひとりで体力づくりに励んだのでした。
  事程左様に外国で暮らす場合、日本人にとって全く厄介なもののひとつに鍵があります。日本式のスライド式の戸障子に鍵はかけません。ですから、日本家屋に泊まる外国人は一様に不安がり、部屋の中での居場所が定まらないといいます。
  私が大変不思議に思うことに、彼等は家の出入口、各部屋のドア、自動車、勤務先の扉や戸棚はもちろん、共用のトイレのドアにまでも鍵をかけ、各々の人がいちいち鍵を使って用を足し、また鍵をかけます。公衆のものも、設備費や維持費の必要からスイスでは以前、20サンチーム(約18円位)入れないとトイレのドアは開きませんでした。でも、ひとりが使用してドアをしめないうちに、次の人が入るとこれは収入になりません。そこで最近は、ひとりだけ通れるシステムに変更し、1・5フラン(約125円位)払うやり方の最新式清潔公衆トイレがあちこちに出現しました。
  ヨーロッパやアメリカでは、トイレ使用にコインが要ることは常識ですし、お金を払っても安全で衛生的な環境で落ち着けるならば結構なことです。
  このように、あらゆる場所に鍵を掛けて身の安全を守るのは、プライバシーを大切にし、自分の領分に他人に入れないための用心の強い表れだと思います。「我が身は自分で守るべし」という大前提がそこにあると確信しました。日本に暮らす私達は、家屋の造り方からして開放的な上に、向こう三軒両隣の感覚が地方にはまだ残っていて、あらゆる場所に鍵を掛ける自己防衛の考えはまだ薄いですね。
  しかし、最近の建築ではかなり戸締まりのことが研究されて、安全で便利な欧米式の方法が一般家庭にも普及していると聞きました。
  さて、スイスの窓やドアのロックのやり方はなかなか面白いのです。まずは窓。開放する場合に、どの方向にどれくらい開きたいかの調製が出来る仕組が窓枠に組み込まれていて、左・右・斜め上部は内開きで通風が適当に変えられるので心地よく、これがドアとなると更に細かい工夫が扉に内蔵されているので、かなりがっちり戸締まりができました。
  ちなみに、ある家を例に玄関のドアを調べてみると、厚さ7p、厚く頑固に出来ていて一度締まると、押しても引いてもびくともしない。それこそ鍵を忘れたら一大事だと思いました。扉の側面には二重三重にリベットやくい込み口が付いていて、全体ががっちりとかみ合うので、びくともしないのです。
  アメリカは人種のるつぼと言われるように、世界中の人々が集って暮らしているから、それぞれの生活様式や習慣も異なり、自分のことは自分でコントロールすることが、自然と生活の基本原則になっているのです。ヨーロッパも数多くの国々が種々雑多な人種をかかえて、今もなお戦火の絶えることがありません。このように世界中の国々や地域が決して単一民族では成り立っていないことを思えば、そこに生きる人々は決して他人に頼れないのです。
「自分のことは自分で責任を持つ」ことの重大さは容易に理解できます。そのために毎日の暮らしに鍵は必需品でした。と同時に自己防衛の証でもあると思いました。私達は、島国の気安さから何事につけても無防備で、あなた任せになり易いのです。日本国内で暮らす感覚をもっては、決して外国での生活は出来ないことを知っておきたいと思いました。

・・・次回へ続く・・

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第22回
22 収納を考える (第37号 2000.4.1発行号より)
 前回、湿気の少ないスイスの住まいと暮らしについて書きました。湿気が少ないことの利点のポイントに、収納があります。最近の私たちの生活は、種々の電化製品をはじめ生活用品に伴う器具や用具が、思いのほか場所をとって家の中を狭くしています。
  その最たるものが自動車で、路上駐車禁止のために無理して敷地内に車を入れると、家事をする身には不都合がおきます。これに加えて、バイクや自転車も厄介者です。家の中はコンピューター関係や、ステレオ、大型テレビ、ワープロにTVゲームやビデオ・テープなどなど、広い家でもかなりの部分が、あふれた物・物・物によって占領されてしまいます。
  私達の暮らしはもっと整理できないものでしょうか。
  西欧の暮らし方を参考にしてみると、実にうまく収納のスペースをとっています。その最も有効利用されているのは、地下室です。ごく標準的な家庭では地下室と車庫を併設しているので、それだけでもかなりの雑物が整理整頓できるのです。
  例えば、子供の遊具、自転車、スキーや山歩きなどのスポーツ道具一切、芝刈機をはじめとする庭の手入れ用具、不用になった家具など、あげればきりがない数々の家庭用品、そして、ワインや保存食、冷凍食品や乾物類の貯蔵庫となり、ボイラー室には洗濯場や干し場があり、場合によってはアイロン掛けも出来る十分な余地があります。
  アメリカでは、地下室が、子供の遊び場や家族の個室、又は団欒のホール、時には客室として整備されている家庭も多いのです。これらはすべて湿気のない地域ならではの特権だと思います。国土の狭い日本でも、このような利用法があれば、もっともっとゆとりのある生活が工夫できるのにと、ため息が出てしまいます。
  第2次世界大戦中、我が国では各家庭の地下に防空壕を掘ることを義務づけましたが、湿気がひどくて、とてもなかに入っていられなかった記憶があります。当然何の役にも立ちませんでした。
  スイスでの暮らしは、室内をいかに広く便利に使うかの工夫が、あちらこちらに見られます。物品は出来る限り用途別に分けて、所有者又は使う人の身近な場所の作り付けの棚や、戸の付いたユニットにわかり易く収められています。これはベッドの生活のため、夜具の出し入れなどの朝晩の手間や、寝具を収納する押し入れが必要ないこと、気候が一年を通してあまり大きい変化のないことから、一年中の衣類の殆どがセットされた洋服ダンスやコーナーに、いつでも使えるように掛けておけるので、折り畳んだり重ねたり、夏冬の入れ替えも要らないなど、私共とは大きな違いがあります。勿論、思い切った選別をして大胆な簡素化をすれば、私達にも彼等と同じような収納や整頓は可能だと思いながらも、なかなか踏み切れない事情のあることも理解できます。2000年を機に区切りをつけるためにも、ひと工夫してみたいものです。女の城といわれる台所も、収納の善し悪しで料理の腕もいかようにもなると思います。
  また最新のハイテクの粋を集めた設備も見逃せません。
  ここでの例をあげると、ドイツ製のSIEMENSの電磁調理器です。以前は電気の調理器だったので、点火した際の火力が弱い上に余熱に気をつけて使わなければならなかったけれど、電磁器は火力の反応も早いし、余熱がいつまでも残りません。この場合、鍋類は熱伝導のよいフランスやフィンランド製のステンレスが使われています。
  冬になるとやっかいな暖房も最近は便利になったけれど、これまた夏の扇風機と同様に収納にうんざりします。彼等の各部屋にはスチームがセットされ、自動的に作動する床暖房も整備されていて、地下室のボイラーが家全体の温度管理をしてくれるのです。
  また、ZUG MICROBRAUN SLと表示されたマイクロウエーブは、すべての機能を備えた性能抜群のドイツ製器具で、驚いたことに、使用後の器具の掃除までやってくれます。早速、牛ヒレでロースト・ビーフを作り、スペイン産赤ワインのヴェガ・シシリアで乾杯しました。初秋の夕暮れの庭での楽しいひとときでした。

・・・次回へ続く・・
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第21回
21 住まいとくらしを考える (第36号 2000.1.1発行号より)
 暑い日本を離れて、今年もスイスで過ごしました。娘夫婦が庭のある1軒家を改築して、3階の屋根裏部屋を私共に提供してくれました。3方の窓からの眺めがたいそう気に入って、長逗留となりました。
実は、昨年の夏に元の家主に招かれて下見をしていたので、およその見当はついていたけれど、今回滞在して彼らの住まいとくらしぶりの良さに感心しました。
私共は、四季の移り変わりを楽しむと同時に、それに伴う自然現象にも大いに左右されました。中でも夏の暑さと湿気には、ほとほと参ってしまいます。今回も朝8時30分に成田空港に到着して、すぐどかっとする熱気に包まれて驚きました。それから静岡駅に昼頃着いて、35℃という表示にまたまた圧倒されました。
ユングフラウ4158mは吹雪だったし、バーデンでは朝夕セーターを着ていたことを思うと、日本の暑さは尋常ではありません。スイスでも今夏は特に暑いそうですが、一般的には扇風機やエアコンディショニングは必要ないお国柄ですから、「エアコンあります」とドアに貼り紙をしたレストランやカフェを発見して苦笑しました。まさに地球温暖化を確認した思いでした。
スイスに居て羨ましいことのひとつは、湿気が少なく乾燥した空気。勿論、肌のあれや直射日光による日焼けは気になるけれどアメリカの乾燥よりは良いと思いました。この湿気のなさは彼等の衣食住に自ずと表れてきました。例えば、夏の衣服には木綿が汗をとるので最も気持ちが良いのですが。でもよく見ているとかなりの人々がアセテートやビスコース等の合成繊維を着ているし、気温の変化に備えて上衣やセーターも手放さないのです。
食事で気が付くことは、水分を十分にとること。旅行中は、ペットボトル入りのミネラル・ウオーターを常時、携えて歩きました。健康管理には水分補給が第一だと心得ています。
次に住まいです。私達は住居を決めるときに、まず何を考えるのでしょうか。ある時、滞米経験のあるスイスの人にこの事を尋ねましたら、「アメリカ人は、毎日の遠距離通勤も苦にせずに、まずは収入を考える。然し、スイス人は昼食時に家に戻れるかどうかを考えてから、仕事や住居を選ぶ」と話してくれました。
スイスに限らずヨーロッパの国々では、学校、銀行、役所など公の機関も2時間の昼食時間をとっています。家族が揃って昼の食事を済ませてから再び午後の学習や仕事をする習慣があるので、通勤時間は大事なポイントになるそうです。
スイスの山や谷を歩いていると、どうしてこんな不便そうな所で暮らすのかと思う場所にも集落がありました。でもその答えはひとつ。「景色がよい」からだそうです。確かに、朝に夕にアルプスを一望できる住まいは羨ましいことです。
娘達が今回、新居を決めた第一の理由は、私達の部屋からの眺望でした。そしてそれに加えて、緑豊かな環境と静かな暮らし、更に音や匂いに敏感な彼等はこの点にも十分配慮したそうでした。
音といえば、日本の駅のアナウンス。スイスの鉄道も日本のJRと同様に、その正確さを誇り十分に信用できます。常に時間通りに「ゴットン」という音と共に出発しますが、不必要な放送はいっさいありません。
自分の行く先は自分で確認すべきで、放送がない場合もありました。これに慣れてしまうと、日本の雑音の多いこと。全くうるさいとしか言いようがありません。
匂いで気になるのは公衆トイレ。最近は富士山のトイレも話題になっています。あるスイス人は、富士登山の時、室に泊まらずに、5合目の駐車場の車の中で一夜をあかしました。室の寝具や部屋の湿った匂いが我慢できなかったとのことでした。トイレにも随分困ったそうでした。スイスでは3000〜4000mの高地でもハイテクを利用して観光立国らしい手だてと工夫がみられるからさすがです。
昨年あたりから1・5フラン約125円位を払うと最新式のトイレで用足しが出来ます。快適な住まいと暮らしは、新しい情報を生かして改善することだと痛感しました。
・・・次回へ続く・・
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第20回
20 旅のご案内 (4)山歩きの手始めに (第35号 1999.10.1発行号より)

 最近「中高年の山歩き」が盛んで、いろいろなグループがそれぞれの趣向を凝らして活躍されているのは頼もしい限りです。私はいずれの会にも所属していませんが、子供の頃から野山を歩くのが好きで、富士山へは6回登るなど、静岡近郊の山々は勿論、日本のアルプスへも学生時代によく出掛けました。
  特に立山の朝霧、白馬岳の大雪渓とお花畑、乗鞍岳や花崗岩の御在所岳などが印象に残っています。冬には重いスキーを担いで志賀高原や霧ヶ峰、アイスバーンの富士山などへ出掛けたものでした。
  私も以前には苦にもならなかった登り坂や急斜面も、最近はおのずと敬遠してしまい、下り専門になったのは仕方のない成行きと思うようになりました。
  山歩きの専門家でもガイドでもない私ですが、スイスの「山」に魅せられて気ままな自分流トレッキングをするのが毎夏の何よりの楽しみのひとつになりました。
  3回にわたってアルプスのポイントを紹介しましたが、今回は時間のない方でも気楽に行ける手近な山をご案内いたします。
  三角屋根の水の塔や屋根のあるカペル橋でよく知られているルツェルンはフィーアヴァルトシュテッターゼー(四森州湖)のほとりプレアルプスとして名高いRigi(リギ)1798mとPilatus(ピラトゥス)2120mを望む景勝地です。
  リギ山へはチューリッヒから電車で1時間位、ルツェルンから船で約1時間の湖南のフィッツナウからと、東側の鉄道で行けるアルト・ゴルダウの2通りがあります。フィッツナウからは最大勾配25%の赤い登山電車で18分位でリギ・カルバットに到着。そこからリギ・クルム山頂駅1800mへと向かいます。頂上へはさらに歩いて登ります。アルト・ゴルダウからは、1875年開通の青い電車でクレベルからリギ・クレスターリの小さな集落を通り山頂へ。ベルナー・オーバーラントの4000m級の山々が見渡せるこの山頂は、スイスアルプスからは離れていますが日の出、日の入りの美しさでも有名です。
  山頂のホテル「リギ・クルム」は山岳観光ホテルとして180年余りも前の1816年にスタートしました。1864年には英国のヴィクトリア女王が訪れ、1871年にはヨーロッパ初の登山電車が開通するなど、話題性の多い代表的なポイントのひとつです。
  下りは眼下にルツェルンの湖を見ながら、緑の牧草地に黄色のじゅうたんを敷き詰めたようなきんぽうげ科の群落にも目を見張ります。下り方にもいろいろのコースがありますが、リギ・カルバットから登山電車でヴェッギスへ下り、船でルツェルンに出るのもよいでしょう。
  フィーアヴァルトシュテッタゼーをはさんでリギと相対するのはピラトゥス。リギの山が緑の牧草におおわれた女性的なイメージに対して、こちらはごつごつとした岩山で、昔は「魔の山」と恐れられていたことが容易に理解できます。
  頂上へはルツェルン鉄道駅から湖に向かって左側の@バス停から12分位のリンデで下車。坂道を歩いてゴンドラ乗場へ。さらにロープウェイで殆ど垂直につり上げられてルツェルンから50分位で到着します。ピラトゥス・クルムの2ヶ所の見晴し台へは歩いて登れば、遠くにオーバーラント三山や下界の湖が美しく見渡せます。
  下りは世界一の勾配と言われる48%、26度弱の身震いするような角度の岩壁を1889年開通のケーブルカーのようなピラトゥス鉄道が、歯車を水平にして両側からラックレールを挟む珍しい仕組みで4・5qを40分もかけて慎重に客を運びます。
  湖岸のアルプナッハシュタートに着けば船着場は目の前。船に乗れば1時間程でルツェルンへ。スリルのある変化に富んだ半日コースの旅が楽しめるのもいい気分です。
  スイスは、小さな村にも谷にも、それぞれに新しい発見があり、うれしい体験に出会えます。地図と時刻表を片手に気ままな一人旅も治安のいいスイスならではのことです。
・・・次回へ続く・・

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第19回
19 旅のご案内 (3)ベルナー・オーバーラント・アルプス (第34号 1999.7.1発行号より)

 朝早く鳥のさえずりで目が覚めて朝食前にひと回り近所を散策しました。8時には店が開くので昼食用の生ハム、パン、サラダ用のトマトや胡瓜とミネラル水、計り売りのさくらんぼ等を生協で買って、ユングフラウヨッホ行きの登山電車に乗り込みました。
  電車は谷底のグルント943mで線路の真ん中に鋸状に溝を切ったラックレールになり、ぐんぐん登ります。途中、クライネ・シャイデック2061mで乗換えて4000mに近い山の中に穴を空けたトンネルの中を走るのです。
  電車は1898年から14年かかって1912年に開通した由緒ある鉄道で、この急峻な山に線路を敷設した驚異的な技術もさることながら、それを観光の目玉として幾多の人々を運び上げ、一度の事故も無いというしぶとさ、そして計算され尽くした経営の見事さに脱帽します。
  いよいよ電車はアイガー・グレイシャー駅2320mから9・3q余に及ぶアイガーとメンヒの中をくりぬいたトンネル内に入り、乗客にアイガーヴァント駅2865mで岩壁に開けた四角い窓から殆ど垂直のアイガー絶壁を覗かせます。さらにアイスメーア駅3160mでも5分停車してフィッシャー氷河を見せます。しばらくして遂に終点のユングフラウヨッホ駅3454mに到着。入口に進むと昔懐かしい日本の赤い郵便ポストが立っているのがうれしい。富士山五合目郵便局と姉妹提携していて、これは日本向け専用です。構内は細長いトンネル状になっているので右へ進むとアイスパレス「氷の宮殿」、氷の彫刻が面白い。滑らないように足元に気を付けて雪の中の展望台プラトーへ。ここの雪は北海や地中海へ流れ注ぐと思うとまさにヨーロッパの屋根です。
  ロビーへ戻ってから構内の薄暗いトンネル内を左へ進んでエレベーターでスフィンクス展望台3573mへ。西側にユングフラウ、南にはアレッチ氷河、さらにトンネルを抜けると雪原に出ますがそこには大氷河と山々の雄大な景色と青く澄んだ空がどこまでも広がっています。
  スキーを楽しむ人やエスキモー犬のそりに乗ってはしゃぐ子供達、真夏を忘れ、雑念を忘れて佇むひと時、帰路は途中駅アイガー・グレイシャーで下車してクライネ・シャイデックまでトレッキング、このコースはスイスアルプスの花の宝庫。みんな美しい草花にとりつかれたようにシャッターをきります。時も人も忘れた無我の境地のよう。私は灰色の岩膚と雪渓、緑の牧草と色彩豊かな高山植物、紺碧の澄みきった空を飽かず眺めながら心地よい風を感じるひと時が好きです。
  クライネ・シャイデックからはヴェンゲン経由でラウターブルネン796mに下り、さらにバスでユングフラウ三山から溶けて流れる豪快なトリュメルバッハの滝1634mを見に行きます。
  この後、谷底から800mもあるU字谷の台地にあるミューレン1645mにケーブルカーと登山電車で15分位登ります。車の乗り入れのないこじんまりした素朴な村で、オーバーラント三山を西側から眺望できる別天地です。
  特に朝夕のユングフラウ(注: 独語で若い娘の意)の美しさは格別で、いつまでも見とれてしまいます。余裕があればアルメントフーベルまで登ればさらに見事。またミューレンのひとつ手前の駅ヴィンターエッグで下車してレストランの庭でゆっくりユングフラウと向き合ってのコーヒーもまた格別の味です。
  下山の車窓からはいつまでも三山の端麗な容姿を見ることが出来て飽きることがありません。
  このほか三山を眺めるスポットとして二ヶ所をあげましょう。まずはシーニゲ・プラッテ1987m。インターラーケンから電車でヴィルダースヴィルへ。そこから玩具のようなクラシック電車で50分程で着きます。ホテルの展望テラスからベルナー・オーバーラント全域を十分に眺められるパノラマは素晴らしいものです。
  もう一つのお薦めはトゥンゼーの南岸に位置し、ぶどう畑の中に古色ゆかしいブーゲンベルク城がアクセントをつけた、絵のように美しいシュピーツから対岸のビーテンブットまで船に乗り、登山電車でニーデルホルン1950mへ登るとユングフラウ三山が真正面に堂々とした姿を見せます。これまた忘れられない一幅の絵のようです。
・・・次回へ続く・・

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第18回
18 旅のご案内 (2)グリンデルワルト (第33号 1999.4.1発行号より)

 「ミセス・コンドウ」。
  宿の入口で手を振って迎えてくれるのはグレイシャーガルテンの女主人。快いもてなしとおいしい食事にひかれて、もう5回も宿泊しているのですっかりお馴染みになってしまいました。
  その昔からグリンデルワルトをこよなく愛した日本人は数多くいます。特に1921年9月10日、槙有恒氏が3人のガイドとアイガー東山稜の初登攀に成功した話はあまりにも有名です。その後、田口兄弟がシュレックホルン4078mを、1969年に加藤滝男氏をリーダーに6名がアイガー北壁のルートを、1970年には遠藤二郎隊が冬のアイガー北壁に成功、続いて1971年には加藤兄弟がヴェッターホルン北壁のルートを開くなど、目ざましい活躍が記録されています。
  そのお蔭で、この地域では日本人に好意をもつ人が多く、日本の人達もこの土地の和やかさに引かれて訪れる人が後を絶たないのです。長野県安曇村は1971年にこの村と姉妹提携しています。アイガーは特にその北壁が、マッターホルン北壁やグランド・ジョラス北壁と並んで、世界三大難所と言われながらも、世界中のアルピニストを引き付けてやまない魅力に満ちています。
  その基地としての役割を担うグリンデルワルトは、私達一般の旅行者にも「わかりやすい」土地と言えるでしょう。浦松佐美太郎氏はその著書『たった一人の山』の中でヴェッターホルン登頂について詳しく述べ、麓のグリンデルワルトでの生活を丁寧に綴っています。
「──グリンデルワルトに足を入れた最初、誰しもがアイガーの、のし上がるように聳え立つ鋭くしかも力強い山稜に心を奪われることであろう。どうしてこれが登れるかと思うような山である。(中略)村人の信頼の厚かった槙氏がアイガーを征服し──グリンデルワルトの村を、アルプスの山を、日本に真正面から紹介した人は槙さんだろう」とも書いています。
  またスイスをこよなく愛した作家新田次郎氏は、『アルプスの谷アルプスの村』の中で、初めてスイスの山や村について感動的に紹介し、「アイガーを見たのは登山電車がグリンデルワルトに着く直前であった。いきなりなんの予告もなしに、右側の車窓に巨大な岸壁が出てきた。(中略)山全体が別種なのである。岩の皮膚の色も、肉づきも、骨格も(注: 日本の山とは)違うのである。『人種が違うな……』私の頭にはそんな言葉が浮かんだ」
  Grindelwald(グリンデルワルト1034m)とは、ドイツ語で緑の森という意味があります。村からフィルスト2200mへヨーロッパ一長いリフトに乗って村を見下ろすと、それがよくわかります。牛の群れ遊ぶ牧歌的な風景を取り巻くようにアイガー、メンヒ、ユングフラウが美しい姿でそびえ、アイガーの左手にフィッシャーホルン4049m、フィンステルアールホルン4274mのピラミッド、どっしりとしたシュレックホルン4078m、そして一番左端には村のイニシャルのようなヴェッターホルン3701mが威風堂々とそそり立っています。
  この山々の膚色と雪の白さと牧草の緑、そこに点在する民家のシャレーの茶色が、程よい点描の効果を演じて、見る人に驚きと喜びを伝えてくれるのはさすがです。
  スイスには画家が少ないとよく言われます。景色があまりにも美しく、どこを見てもすべて絵はがきになるようでは描く気にならないのでしょうか。カメラを向けるとどこもかも撮りたくなるし、決してミスのない構図におさまるのは見事としか言えません。
  リフトを降りてヴィッダーフェルトの山道をたどれば1時間で青く澄んだ山頂の湖バッハゼーに到着します。健脚向きにはさらにファウルホルン2681mをおすすめしたいですね。
・・・次回へ続く・・

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第17回
17 旅のご案内 (1)ツェルマット (第32号 1999.1.1発行号より)

 モーニングコーヒーとしゃれて、バルコニーから快晴の空とやや黄ばみはじめた山々を眺めていると、世間の雑念を忘れ、ゆったりとした時の流れに身を任せる思いです。
  こうして毎年スイスの夏を楽しんでもう十余年にもなりました。今夏も18名の方々に続いて5名の友人グループを2回もスイスアルプスの山歩きにご案内いたしました。
  フランスのMont-Blanc (モン・ブラン)4807mはスイス領内ではありませんが、日本の成田を発ってジュネーブに入り、シャモニー・モンブランからロープウェイでAiguille Du Midi3842(エギーユ・デュ・ミディ)の展望台へ。
  モン・ブランの美しい輝きとグランド・ジョラスをはじめ林立する針峰山群にしばらく見とれてからクール・メイユールに下り、イタリアのアオスタを経由し、救助犬セント・バーナードで名高いグラン・サン・ベルナール峠2469mを一気に走り抜け、スイスのマルティーニから一路ブリッグを目ざして、マッタッタールの谷深いZermatt(ツェルマット)1620mへ。
  ツェルマットは、その歴史をひもとけば、4000m級の山々に囲まれた岩と雪と氷しかないこの辺境の土地を、1865年英国人エドワード・ウィンパー一行の悲劇に終わったマッターホルン初登頂をきっかけに、スイスが観光立国として独り立ちした土地でもあります。
  日本のように山を神聖なものと考えて、登山電車やリフトのような交通手段を殆ど造らない国と違って、「そこに山がある」なら、そこへお客を運んで、快適に滞在してもらう。そのノウハウを十分に研究し、知り尽くして、今日ある旅行ブームの基礎作りをしたと言っても過言ではないでしょう。
  神々しいまでに美しいマッターホルン4478mの容姿を見たいと世界の人々がこの辺鄙な山村に集まってくる。まさに「そこに山がある」以外の何ものでもないのです。
  今から百年前に開通した登山電車で村から僅か45分でゴルナーグラート展望台に到着。そこからは、ヴァリス・アルプスの名峰が360度の大パノラマで目前に広がり、アルプスの中に立つ自分を大満足させてくれます。
  いつ眺めても気品のある雪嶺、モンテ・ローザや銀の鞍と言われるリスカムに続いて、白銀に輝くブライトホルンと小さなとんがりのクライン・マッターホルン、シャープなピラミッドのマッターホルン、さらにツムット氷河からは、ダン・ブランシュ、オーバーガーベルホルン、チナールロートホルン、端正な三角錐のヴァイスホルン、アラリンホルン、最高峰のドーム、テッシュホルンなど、30余の4000m級の山が連なります。
  展望台からの下りは電車に乗らずに幾通りものトレッキングコースを楽しみます。まずは、マッターホルンの美しい影をおとすリュッフェルゼーへ。そこからリュッフェルベルク駅へ出てもいいし、リュッフェルアルプで静かに山と向き合うのも、またうれしい。さらにフィンデルンの部落へ寄ってもいい。私はスネガに登って真正面にマッターホルンを見据えて、ただぼーっと時間を過ごす時が一番気に入っています。
「また来たよ」と山に話しかけるのもいつものこと。気が向けばスケッチを楽しみます。近くにアルプスの名花エーデルワイスの群生地を見つけ思わず大歓声をあげたことも懐かしく思われます。
  このほかツェルマットを拠点として歩いてみると、私達が忘れかけている生活の原点をかいま見ることがあります。
  例えば、どんなに旅行者が村の中を歩き回っても、それに惑わされずに黙々と働いている村の人達。あたかもそうすることが礼儀かのように。
  私の好きなツムットをはじめ、ヴィンケルマッテンも、フィンデルンも。他人の生活に干渉しない西洋人の習慣からか、とにかくほうっておいてくれることは、逆に有り難いのです。彼等は山を愛し、山に魅せられて集まる世界中の人々へのもてなし方を十分に心得ているのです。
・・・次回へ続く・・

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第16回
16 ドミンゴに酔いしれて (第31号 1998.10.1発行号より)

 精悍な顔つきのイタリア人テノール歌手、プラシド・ドミンゴ。現代を代表する世界三大テノール歌手として、ホセ・カレーラス、ルチアーノ・パヴァロッティと共にその名声は高く、日本にも絶大なファンを広げ、その来日公演は全ての人々を魅了してやみません。
  1997年の大晦日にThe 3 Tenors in Concertが大阪ドームで開催され、第九「歓喜の歌」を特別にアレンジして披露しました。三大テノールの公演は、90年ワールドカップサッカーの決勝戦前夜祭のイベントとして、ローマ・カラカラ浴場跡で初めて開催されました。
  6千席余の野外劇場で、まだ一部のクラシックファンの関心を呼ぶ程度でした。一躍有名になったのは94年、アメリカのロサンゼルスで開かれてから。96年には三大テノールの世界ツアーが始まり、そのスタートが96年6月の東京・国立競技場での公演で、約6万5千人がつめかけました。
  このドミンゴのコンサートの券が2枚手に入ったと娘が言います。さぞかし高いだろうと私。
  しかもスイスの首都ベルンから電車で1時間位。チューリッヒから45分程の山村、ツォフィンゲンの小高い丘、ハイテルンプラッツで夏の夕方8時半からだといいます。
  ツォフィンゲンも私には珍しいけれど、ホールも何もない寒村の丘に世界的な歌手がどうしてと戸惑いました。とにかく95年7月24日、私は娘と電車で出掛けて驚きました。
  日頃は静かなツォフィンゲンの駅からハイテルンプラッツの丘まで、臨時バスが列を作り、タクシーが走る。走る。
  丘には村中総出で手伝っただろう何百という折畳みの椅子が所狭しと並べられ、何十という即席の簡易トイレも目立ちます。そして来るわ、来るわ。人、人、人の列。独語、伊語、英語、仏語。それらが入り混じって耳に入る明るい歓声。みんなやや興奮し、期待が高まっている会場の雰囲気が何ともいい感じです。
  中には前日から村のホテルに泊まっていたというイギリスの人達。自家用車で国境を越して来たドイツやイタリアの人々。何がそこまで彼等をひきつけるのでしょう。
  日本では大都市でなければ開催されない名コンサートが、この小さな村で行われる。すべてに温かな心配りと自然の中にしつらえたオープン・エア・コンサートに私は大変なショックを受けました。
  当日のプログラムの主なものはヴェルディのオテロ、プッチーニのトスカ、ドニゼッテイのランメルモールのルチア、マスネのルシドなど。相手役のAngela Gheorghiu(アンジェラ・ゲオルギュウ)がまたまた最高に良かったのです。この2人の素晴らしい歌声が四方の山々に響き渡り、しばし何千人かの人々を魅了してやみませんでした。
  あのPlacido Domingo(ドミンゴ)の豊かな声量と歌唱力のすごさと人々をひきつける人柄はすべてを忘れて酔いしれるに余りありました。
  スイスに出掛けると私は娘と連れだって舞台を観に出掛けます。今まで印象に残るものはウィーンオペラ座の「魔笛」、ドイツ国立バイエルン歌劇場の「椿姫」。アメリカ滞在中にはニューヨークのミュージカル「オペラ座の怪人」、そしてイギリスはシェークスピア劇場の「ヘンリー四世」などなどでした。
  日本では最近、歌舞伎座で十五代目片岡仁左衛門の襲名披露があり、久し振りに賑々しい舞台を楽しむことが出来ました。また、静岡には県舞台芸術センター(SPAC)の創立記念公演「シンデレラ」が市内平沢、県舞台芸術公園野外劇場で行われました。
  世界の文化・芸術は、一朝一夕に培われるものではなく、その国の歴史と深く関わりながら育てられるものだと思います。戦後50余年ようやく文化事業にも力を入れる動きが見えてきました。
  しかし、スイスの山の中で日常的に世界的なテナーと出会える幸せは何にも代えがたいし、またそれを心がけて努力を続けることは21世紀への大いなる遺産だと感心させられました。静岡の人々にもそういう息の長い本物を見る目と心が育って欲しいと思います。
・・・次回へ続く・・

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第15回
15 カリジェに魅せられて (第30号 1998.7.1発行号より)

 スイスには多くの美術館や博物館があるけれど、現代画家は、クレー、セガンティーニ、ホドラー、ジャコメッティと意外にいません。外の景色が素晴らしすぎるからでしょう。
  その中でオーバー・エンガディンのサンモリッツにあるセガンティーニ美術館は僅か3枚の連作「生成」「存在」「消滅」であまりにも有名です。北イタリア生まれのGiovanni Segantini(ジョバンニ・セガンティーニ)(1858〜1899)はアルプスに生きる人々を執拗に独特の筆致で描きました。
  1997年の夏、私と主人はこの谷から更に東側のオーストリア国境に向かうイン川沿いの谷、ウンター・エンガディンにスイスの画家カリジェの足跡を訪ねる旅に出ました。
  このグラウビュンデン地方はレート・ロマンシュ語を話し、石造りの家々の壁面にはシュグラフィッティという引っ掻いたような連続模様の技法が見られることで知られています。中でも終点スクオールの村はよくその特色を生かしていて見る人を十分に楽しませてくれます。
  グアルダ村は、画家Alois Carigiet(アロワ・カリジェ)(1902〜1985)を知る上で是非とも訪れたい村です。電車を降りると駅舎がぽつんとあるだけで、気が付いたら駅舎の陰にポストバス(路線バスが郵便物を運ぶ)が客を待っていました。村は3qほど登った標高1653mの小高い丘の上。こじんまりとした村の家々はスクオールとは異なった絵柄のシュグラフィッテイの石造りで、どこか懐かしい風景。決してでしゃばらず、片意地はらず、それでいてそれぞれに自己主張があって、まとまっている。なるほどここで「ウルスリのすず」が生まれたのですね。
  画家カリジェはグアルダの子供の祭りの話を書いたSelina Chnz(ゼリーナ・ヘンツ)女史と出合ってその絵本を描き、さらに彼女の作品「大雪」「フルリーナと山の鳥」をまとめた後、自作の3冊も加わって1965年国際アンデルセン賞第1回画家賞を受賞しています。彼は油絵、舞台装置、各種のデザイン、さらに州議会場、迎賓館、教会の壁画など幅広い活動をしました。
  グアルダの村でバスを降り「カリジェの家はどこ?」と尋ねた私に、中学生らしい少女は「この家がカリジェの住居、隣はヘンツ先生の家よ。そしてこれがウルスリの家」と道を隔てた見覚えのある建物を指差しました。
  「ありがとう」。久し振りの英語のやりとりにほっとして、私は村の一角に釘づけになりました。先に懐かしいと思ったのは、カリジェの絵本で知り尽くした村の佇まいだったのです。
  バックの山も、路地も、井戸も、そうそう家の前のベンチも、何もかも昔のままで止まってしまったような村。ひょっこり、ウルスリが大きな鈴を肩に出て来そうな気配さえ感じたのでした。
  カリジェは自然の中に生きる子供たちの素直な情景を大切に愛情をもって描き共感をよびました。私はこの村が気に入って、何度も振り返りながら、歩いて山を下りました。静かな午後のひと時、通過する電車もなく待つことしばし、一旦クールに戻って、翌朝トルンに行くことに決め、カリジェのコレクションで名高いホテル・シュテルンに宿をとりました。ここの廊下、部屋、食堂は彼のリトグラフで飾られ、「カリジェの部屋」は彼独特の明るくモダンな色使いの油絵の数々が展示されて、ホテル全体がカリジェ美術館のようでした。
  次の日、私達は満ち足りた気分でトルン行きの電車に乗りました。雨の降るトルン駅には私達のほか誰もいない。容赦なく降り続く雨に傘を持たない旅人はなす術もなく、無人の教会に飛び込んで小降りを見計らって道に出ました。ここはカリジェの生まれ故郷で、生家やアトリエ、作品を集めた美術館があるのにあまり知られていない寒村。銀行の中にあるインフォメーションで村はずれのスルシルバン美術館を聞いて直行。しかし開館は午後2時。仕方なく雨宿りのつもりで入ったレストラン・カサ・トウデイでコーヒーを飲む。昼食には早いけれど注文した鱒の塩焼きの美味しかったこと。これに元気づけられて、また雨の中を歩く。2時きっかりに再び美術館の前に立って愕然としました。何と今日は休館日。がっくりと肩を落として駅の方に足を向けたその時、「こんにちは」上の方から声がしました。見上げると向かいの建物の3階からにこやかに微笑む女性。じゃらじゃらと鍵束を鳴らして道に出てくるなり、「日本の方ですね。美術館を開けましょう」。英語でそう言うが早いか先に立って私達をカリジェの部屋へ案内してくれました。壁いっぱいの油絵と絵本の原画、そして彼の写真、例の細長い人物と強烈な色彩、特に赤が印象的、人物や馬車を後方からとらえた彼らしい構図の面白さ、小鳥や小動物や草花への優しさが胸を打つ、しばらく静かに見惚れました。
  日本の画家・安野光雅氏がこの美術館に眠っていた彼の絵本原画を公にされ、我が国でも展覧会が催されて人々に知られるようになりました。帰り道、村の菓子屋の外壁に描かれた「フルリーナ」に見送られ満ち足りた気持ちになりました。
・・・次回へ続く・・

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